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証をするにあたって、自分自身の信仰の歩みを振り返り、自分の信仰について最も課題になっているのは、「何でもない自分も、神様は愛してくれている、そんな自分を自分自身が愛せるようになる」ということだと再確認することができました。そのことを妨げているのは、慎重で臆病で、自分に自信がないという自分の性格だったり、生い立ちだったり様々あるのですが、ここ数年間の妨げ二大テーマは、ずばり、仕事と結婚・離婚、だったと思います。今日はその中で得た神様からの恵みをお分かちしたいと思います。
信仰の始まり ~進学の中で~
まず私が育った背景ですが、私はノンクリスチャンの夫婦の第一子として生まれました。父は無神論者で、母の家系は親戚中が新興宗教を信じていました。母はその宗教では平安がもたらされることなく、結婚を機に岐阜県の実家から福井県敦賀市にやってきたことで、やっと宗教から解放されると感じていたそうです。宗教はこりごりだ、と感じていたのに、母は私を出産後に、社宅の中で開かれていた家庭集会をきっかけに教会に導かれ救われました。その後、私も教会にいくようになり、7歳の時に信仰告白をしました。
ノンクリスチャンの父の反対にあったり、部活や習い事、友達付き合いなどから教会には、行ったり行かなかったりの日々でした。高校受験を考える時期になり、幼少期からダンスを習っていたことから、音楽の事や歌の事を学びたいと思い、音楽科のある高校に進みました。しかし、入学後しばらくして「自分の選択した道は正しかったのだろうか」という疑問がふっとわいて、その疑問は日を追うごとに膨れ上がっていき、次第に食欲も学校に行く意欲も失っていきました。その時の私は、周囲を厚い壁に阻まれて、前にも後ろにも、右にも左にも進む道を失ったようで、ひとり途方に暮れ、孤独の中にいました。しかし主は、
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。ヨシュア記1章9節
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と私に語り、癒しと回復を与えてくださいました。不思議な導きがあり、音楽科から普通科に転科することができ、その後医師になるという新たなビジョンも与えられました。医者になるような学力も器もないことは自分が一番わかっていました。だからこそ1年の浪人の末に医学部合格が決まった時には、これが私のうちからでた力によるものではないこと、神様が私を医師として遣わしてくれようとして下さっていることを本当に確信することができました。「医師の道は神様からの召しだから、簡単に手放してはいけない!」という思いがあったからこそ、辛い仕事も投げ出さずに今まで乗り越えてこれたと思います。精神科で働くというビジョンも後に与えられましたが、先ずは身体疾患を診れるようになってから精神科には進もうと思い、内科に進みました。
試練の中へ ~結婚・離婚~
一方で、病院に就職後、同僚の医師と結婚をしました。自分の両親の様子から、ノンクリスチャンとの結婚生活が簡単ではないことは実感していたため、当時ノンクリスチャンだった彼とのお付き合いには迷いがありました。しかし、教会に行き、母教会の牧師にも個人伝道をしてもらって、信仰告白ができ、そこで結婚への思いも決心することができました。しかし、結婚後すぐコロナ禍に突入し、彼は適応障害になり仕事を休職しました。それでも私は案外落ち込むことや思い煩うことはなく彼の回復を祈ることができていました。ところが、病気が回復し徐々に復職もできていた矢先に、彼の不倫が発覚し、その時はさすがに怒りと憎しみがわいてきて途方にくれました。でも、ここでも、神様の助けを体験します。祈る中で、
「もうあなたの罪を思い出さない」イザヤ 43章25節
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と神様がいっているのに、私が彼の罪をずっと思い続けていてはいけない、赦して先に進もう、という思いが与えられました。今後、何年も、何十年も恨み続けるかと思っていましたが、神様はたった1週間で赦す心を与えてくれたのです。そこからは、牧師先生にも祈ってもらいながら、関係修復のために尽くしました。一度復縁しかけたものの、また裏切りが分かって、結局彼の心は頑ななまま、悔い改めの言葉も聞くことがなく離婚することとなりました。離婚に至るまでの期間で、彼だけでなく、共通の友人からの裏切りも分かるなど、完全に人間不信状態でした。その当時、頭から離れなかった自分の傷ついた心のイメージがあります。その傷は「スパッと刀で切られて一瞬でおった傷」という感じではなくて、「まるでチーズを削るように、少しずつ、おろし金でごりごり、毎日毎日削られていく」そんなイメージでした。
回復の道へ➀ ~出会いと変化~
しかし、こんな荒野の中だったからこそ、神様はますます私に迫ってきて、ものすごく近くで語ってくださいました。礼拝や日々のデボーション、また、ゼラスジャパン(BFP japan主催のイスラエルやユダヤの歴史を通して神様を学ぶプログラム)での学びを通して、さらに神様の思いを受け取った結果、神様の契約は変わらないし、完全な勝利が約束されているんだという全き平安を受け取ることができました。そのことを受け取ったとき、気持ちは「向かうところ敵なし」「マリオがスターを獲得した時のような全身ピカピカ」のイメージで、もうおろし金で削られているイメージは心にありませんでした。
こうして荒野での神様との出会いを通して、ものすごいスピードで、結構な回復をとげた私ですが、やはり時折辛かった当時のフラッシュバックがあったりして、おろし金で削られた複雑な傷口が完全に元通りにはなっていない状態でした。でも、ますます神様に用いられる人生にしたい!という信仰的な確信は得ていたので、そのように祈って過ごすことができていました。そして祈りを行動に変えていくタイミングがやってきました。まず、仕事面ですが、尊敬し慕っていた先生が上司のパワハラによって退職することがわかったことや(パワハラをする上司のもとで働き続けることが難しいと感じた)、自分自身の内科としての働きもそろそろひと段落つきそうなことから、いよいよ精神科への道を目指そうと、今年の2月ごろから転職活動を始めました。
そして離婚についてですが、結婚という重荷を下ろしたわたしはもうそれはそれは自由で、時間も、お金も、そして信仰生活も自分の思いのままに過ごすことができて、完全に「一人ってサイコー!」っていう心境でした。しかし、この心にも神様は迫ってきます。礼拝のメッセージや、ゼラスジャパンでの学びで、「結婚は神様が用意している恵、祝福なんだ」と何度も教えられて、「ほんまにこのまま一人で過ごしていく気なのか???」と何度もつきつけられました。また、「一人サイコー!めっちゃラクー!!!」と思う心の一角に、「でも、このままずっと人間不信、誰のことも信用するもんか!っていう頑なな心をもったままでいいの?私のまわりの人たちも神の子で、神様は愛しなさいっていってるのに、いいの?」という思いもあって、またこの世においても、人のことをちゃんと信用できる自分になりたい気持ちもありました。じゃあ、どう行動におこそうかと考えたとき、まず「結婚は恨むべき存在ではなくて、祝福・めぐみなんだから、結婚についてはちゃんと祈ろう」、その先に結婚がなかったのならば「ひとりサイコー!自由な信仰生活サイコーって、独身の賜物を謳歌しようではないか!」という考えに至り、婚活もはじめることとなりました。
回復の道へ② ~アイデンティティの変化~
ほぼ同時進行でスタートした転職活動と婚活。転職活動の方は、就職したいと思える病院もちらほらしぼれてきて、「いよいよ精神科かあ!」とウキウキしておりました。婚活はというと、周りの人たちの経験談やアドバイス等々から「向こう5年ぐらいはかかるだろう」と思っていました。「でも、その期間も自分を見つめ直すいいきっかけになるさ!」ぐらいの軽やかな気持ちで何人かの紹介を受けました。冒頭で話したとおり、自分の中で仕事を手放す未来は全くなく、仕事を辞めず、関西に住み続けることができ、信仰面でもわかりあえそうな方が何人か紹介されました。しかし、不思議と導かれた方はアメリカ在住の方で、絶対に仕事をやめないと成り立たない相手でした。それ以外にも、年齢とか、相手の仕事とか、いわゆるプロフィールに上がってくるさまざまな条件のみでみると「正直どうなん?」って感じるような相手でした。
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そもそも、世の中には家事完璧、おいしいごはんも作れて、家族を満足させられる奥さんがたくさんいる中で、私は家事は苦手、ずぼらで、生活力もぜんぜんないです。それでも前回の結婚生活は自分なりにかなりがんばりました。苦手な家事もこなし、適応障害の夫が休職中も働き、慰め、気晴らしに旅行に連れ出し、裏切りにあっても、精一杯愛することをやめなかった。けど、結局がんばれども、がんばれども結果はダメだった。この経験から、愛するには、愛されるには、「頑張ることは必要不可欠!」と刷り込まれていました。でも、お付き合いに進む彼から「今まで十分頑張ってきたよ。君はそのままで素晴らしいから、もうこれ以上頑張らなくていいんだよ」と言われたとき、「頑張らなくていい」が頭のなかをグルグルしました。「いやいや、頑張らずして愛されるわけがないじゃないか!」という思いの中で、辞めるなんて考えもしなかった仕事についても考えることとなりました。
私はセルフイメージがもともと低く、自分に自信がなくて、自分自身を愛することができない人です。「このままこの人と結婚するなら仕事辞めなきゃいけない。医者じゃなくなるの?お金も自分で稼げなくなるし、ただの真人間?仕事頑張ってない自分に何の価値があるの?」という考えが浮かんできました。そこで初めて、私は医者として働いていることが、神様のためだけじゃなくて、いつの間にかアイデンティティであり、自分自身を認め愛するための手段になっていたのかもしれないと気づかされました。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 イザヤ43章4節
特別に愛されている人よ、恐れるな、安心せよ、強くあれ、強くあれ。 ダニエル10章19節
ずっと「自分自身を認めて、愛すること」が人生において課題でした。思わぬ形でその大きな課題を改めて突き付けられ、考える機会が与えられたわけですが、「神様は本当に、どんなことも、クリスチャンもノンクリスチャンも関係なく、なんでも用いて私に迫ってきてくれるのだなあ」と不思議に思います。
頑張らないと愛されない、神様の召しである仕事をしているから価値がある、と思い込んでいたのは自分だけで、神様はなんでもない自分も価値があると言ってくれていました。そのことを信じ切って、今こそすべてを手放し、ただただ神様に用いられたいと願う、そんな信仰が今の自分には最も必要なんだと感じます。まだ癒えきってない過去の傷も含めて、自分自身を、隣人を、愛する信仰を日々与えてくださいとこれからも祈っていきたいと思います。
E.S.
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