「召された状態に歩む」Ⅰコリント7章


現在の結婚のスタイルは様々である。➀法律婚 ②事実婚 ③共生婚 ④友達婚 ⑤契約結婚 ⑥チーム婚 ⑦別居婚 ⑧週末婚 ⑨通い婚 ⑩同性婚など。結婚とは一体何であろうか。主観的な結婚観の持論はあっても、明確な教えはない。しかし、聖書は、はっきりと結婚の目的を伝えている。結婚は、二人が一体となり、互いに愛し合い生きるために、人に必要なもの、また良いものとして、神が定められたものである。理想的な結婚像は聖書の中にある。しかし、人の罪により、最初の理想的な結婚観は壊れてしまっている。パウロは7章で結婚に関することから、教えを展開している。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

コリントの教会は、性的な乱れが問題であった一方で、極端な禁欲主義も問題にあった。「男が女に触れてはいけない」この教えが夫婦関係の中にも適用されていた。正しい教えも間違って受けとると、極端な方向に行ってしまう危険性がある。信仰は夫婦関係を切り裂くようなものではない。結婚の大切な点は、夫婦のお互いの関係性にあり、スキンシップも含まれる。

また、離婚、再婚についても、この章で語られている。今の時代は、結婚や離婚に対する価値観が大きく変わった時代であり、みことばは常に世との戦いがある。その戦いの中を歩むのがクリスチャンの歩みである。クリスチャンの中にも離婚や再婚があり、その理由は人それぞれであり、非常にデリケートな問題である。この時、みことばを自分の都合のよいように解釈して、自分の間違いや罪を正当化するようなことはしてはいけない。それは自分勝手な結婚、離婚観を造ることになる。真理は聖書の中にある、ゆえに正面から受け取ることが大切である。また、気をつけないといけないことは、基準は聖書に示されているが、その再婚や離婚が罪かどうかは、主が決めることであり、回りが裁くことではない。

忘れてはいけないのは、離婚や再婚したとしても、主の愛は何一つ変わらずに注がれており、失敗したから少なく愛されているわけではない。この愛を受け続けることが大切であり、信仰から離れてはいけない。

(v7) 私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

パウロは今の時代は、結婚せずに一人でいる道を推奨している。その理由として、心が分かれることを理由にあげている。彼は、結婚の素晴らしさは否定しないが、クリスチャンはキリストと一体となった者、その関係を最優先にできるのは、独身である。結婚と同じ関係、否、それに勝る関係が、イエス・キリストと私の関係である。

さまざまな状況の中を私たちは生きている。大切なことは、召された状態の中を歩むことである。召された状態とは、福音を通して救われた時の状態である。つまり、神の子とされた私たちが、原罪の状況の中でどのように生きるかである。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。(6:12)神の子として、何が益になることか、真剣に主に向かうことが大切である。クリスチャンはキリストと一つとなり、キリストの心を持つものです。

(v17) ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。

「主と一つとなって生きる」Ⅰコリ6:12-20


1.間違った自由
クリスチャンの重要な本質は自由にされた者である。イエスが来られた目的は自由を与えるため。与えられた自由をどのように用いるか?コリントの教会の主張は、「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」、体があるから、淫らな行いがあるのだと、自分たちの行いを正当化していた。救われているから、自分の好き勝手に生きて良い。ほんとうに聖書はそのような自由を語っているのだろか?

「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。(v12)

2.何から自由になったのか?
救いは私たちに与えた自由は、罪の奴隷からの自由である。救われる前は、自分のため、自分が正しいと思うことのためにしか生きることができなかった。しかし、クリスチャンは、自分の思いではなく、神のことばを選べるようになった者である。コリントの教会の人々は、何から自由になったのかが分かっていなかった。ここ彼らの問題があった。救われた者の自由は真理である。しかし、聖書が何を私たちに語っているのか?知識においても知ることが大切である。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ5:13)

あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。(Ⅰペテロ2:16)

3.主と一つ
「遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(v16-17)
救いは、私たちとキリストを一つにする。私たちの新しい生き方は、キリストの心を生きることである。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」みことばの大切さはわかるが、実際に問題に直面した時に、当たり前のようにその逆を選ぶ。いろんな言い訳をして、自分の思いを正当化する理由を見つけるのは簡単である。これが私たちの肉である。
遊女(罪)と交わり一つとなる、とは罪を犯し続けることか?そうでなく、罪を容認(言い訳、正当化)し続け、罪を犯し続けることである。一方で、主と交わるとは、自分の罪を認め、悔い改めて歩むこと。これが主と一つになっている証である。これが100%罪びと、100%義人のクリスチャンの生き方である、

聖書の教えることは、自分の正しさのために生きるのではなく、神と人を愛する者として生きることである。ここに私たちの体の目的があり、そのために与えられた自由を用いるのである。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(v19-20)

「あなたは何者か?」1コリント6:1-11


1.正しくない人
問題が起きた時に、どこに解決を求めるか?それは、だれが正しく判断できると考えていることに繋がる。コリントの教会は問題の解決を、神を信じていない人たちに委ねた。パウロは彼らを正しくない人としている。なぜなら、彼らは神の視点を基準に判断をしないからである。アダムとエバが、食べた実は、善悪を知る実。それにより罪が入った。罪は神に反するものである。つまり、神に属する教会にとって、この世の判断は正しくはないのである。なぜなら、この世の判断はどちらが正しいかを決めるだけだからである。そして、コリントの教会の人もその判断を求めた。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。(v7)


2.神の国のルール
神の国のルールの一つは、マタイ18:15に表わされる。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」その特徴は、内密に行うことであり、問題が公にすることやどちらが正しいを決めるためではなく、和解が常にその目的の中心にある。しかし、神の国のルールはもっと上がある。それはマタイ5:40である。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」つまり、不正を知った上で、それを受け入れなさい、と語っている。その理由は「天におられるあなたがたの父の子どもになるため」(マタイ5:45)とある。この間抜けに思えるような生き方が、実は神の子どもの生き方なのである。要は、「負けたもん勝ち」。そこに本当の愛があるとマタイは語っている。難しいことであるが、目指すべき歩みである。

(v7)どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。


3.義と認められた者
コリントの教会の勘違いは何か?イエスを信じたら、それで終わりと思っていたこと。「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。」(v9) 私たちは二つの矛盾したことがある。一つは、100%この地の住人であり、一方で100%神の国の住人であること。二つ目は100%罪びとであり、一方で100%義なる、聖なる者であること。どちらが本当の自分か?クリスチャンはイエス・キリストの十字架の御業によって、義と認められました。それによって、神の国を相続する神の子とされた者です。この世にあっても、100%神の国の住人であり、100%義なる者です。私たちは、イエスにあって、新しい命を生きる者です。古い自分ではなく、新しくされた者として生きていくことが大切です。特に教会の中にあっては、新しく生まれた、神の子同士としてお互いに接することが大切です。

(v11) あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
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「教会は罪のない者の集まり」Ⅰコリ5:6-8


1.古いパン種
パンは、パン種(イースト菌)を小麦粉に混ぜ込むことにより、大きく膨らむ。パウロの勧めは、古いパン種=罪により膨らんだ状態ではなく、新しく罪のない者として歩むように勧めている。イエスもパン種について語っている間違った教えが入ることにより、悪い影響が広がることを注意するように、と語っている。
「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」(マタイ16:6) 
しかし、弟子たちはまったく理解しなかった。同じようにコリントの教会の人々も、罪に対するパウロの教えを理解していなかった。初めから、この状態があったわけではない。罪がエスカレートした結果。だから、パウロは教会の中の古いパン種を取り除くように教えている。なぜなら、一つのパン種=罪は、教会の中で大きく膨れ上がるからである。「釘一本のために王国が失われた」と言うことわざがある。小さな釘一本が、大きな問題へとつながる。私たちの中に、「パン種」や「一本の釘」はないだろうか?

ガラテヤ5:19-21
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のもの

2.誠実と真実の種なしパンの祭り
旧約聖書の、パン種を入れないパンの祭りは、過ぎ越しの捧げものにより、罪のない状態になったことが続くことを象徴している。誠実と真実の種なしパンの祭りとは、イエス・キリストによって罪赦された聖徒として礼拝を捧げる、ということである。教会はそういうところである。もちろん、教会は罪びとが受け入れられるべき場所である。しかし、罪を誤魔化したり、見て見ぬふりをする場所ではない。だから、教会で語られるべきことは悔い改めであり、赦しと恵みの福音が語られる場所。この恵みを受け取った者こそが、真の礼拝者の姿がある。私たちには、悔い改めが必要である。

(v8)古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

3.礼拝の本質
教会が罪のない者の集まりというのは、悔い改めて、赦され結果である。つまり、教会はイエス・キリストの恵みによって、罪のないにされた者の集まりである。すなわち、この悔い改めを通らない、礼拝はなないし、奉仕も、良い行ないも何もない。まず自分の罪を見つめ、悔い改めるところから、そして、聖い者として礼拝を受けるのである。ここに礼拝の本質がある。主イエスの十字架は私たちのすべての罪をきよめる。私たちの内からパン種を取り除く方法は、十字架を見上げて悔い改めること。それにより、いつでもパン種のない新しい粉の状態=罪のない状態に戻ります。

(v7) 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

私たちは、主イエスにあって、新しく生まれた者です。イエス・キリストにあって神の家族とされた者たちです。それは、罪ある者の集まりではなく、聖徒の集まりであり、それが教会です。いつも、この主の赦しと恵みを受けて歩んで行きましょう。

「受け継がれるもの」Ⅰコリント4:14-17

パウロの愛
コリントの人々はパウロの語る福音を聞き、イエス・キリストを信じた人たち。正しい教えを聞いていたが、間違った生き方になっていた。パウロは彼らに対し、父と子の関係から語っている。パウロはコリントの問題に対し、神の家族として、愛を持って問題に関わることを大切にしている。もし、この愛の関係を忘れるならば、教会は問題や罪に対して裁いて、判決を下す裁判所に過ぎない。これがコリントの教会の問題であった。

罪を裁く神の義は神の性質である。一方で、罪人を赦し受け入れる神の愛も神の性質である。では、義が先立つ教会、愛が先立つ教会、どちらを私たちは目指して行くべきだろうか?
イエス・キリストは私たちを赦すために十字架にかかられました。それは、私たちを正しい道に進ませるためです。この手紙の目的も、正しい道へ導くためである。そこには養育係にいはない、親の子に対する大きな愛がある。

受け継ぐもの
本来、この手紙は世に出回るものではなく、コリント教会の中だけで留められるべきものである。恐らく、コリント教会の同意のもとで広がったに違いない。そうでなければ、コリント教会の恥をさらしているだけである。しかし、受け継がれてきたのは、この中には受け継がれるべき大切なことがあるからである。それは、問題に対する聖書的教えだけではなく、問題に対して愛を持って関わることである。ここに新しい命の生き方がある。

(v16)ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。
Ⅰコリント11:1
私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

パウロの生き方は、イエス・キリストの生き方。しかし、パウロは直接イエスと過ごしてはいない。つまり、イエスの教えと弟子たちの生き方を通して教えられた生き方であり、それはイエスのように愛をもって仕える生き方である。パウロが語り継いだのは、福音だけでなく、この新しいいのちの生き方である。私たちが親や信仰の先輩から受け継いだものは何であろうか?それは、教えだけでなく、その人の新しい命の生き方も含まれていないだろうか。私たちもこのバトンを、次の誰かに受け継ぐことが委ねられている。

「私たちの建てる家」 Ⅰコリント3:10-17


1.建てる土台
「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。(v10)」
建物を建てるのに、まず必要なものは土台。岩と砂の土台では洪水の時に、大きな違いが現れる(マタイ7:24-27)。私たちの土台は何か?「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打わち勝てません。」(マタイ16:18)
この岩の上とは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」という信仰告白である。
あなたがイエスを何と告白するか?これが私たちの土台である。

2.建てる建物
「しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。(v10)」
土台を据えて、その上に建物が建てられる。つまり、信じて終わりではなく、その後の生き方が問われている。土台は、私たちに与えられた新しい命。その命をどう生きるか?現代の時代は自由があり、それぞれの思うように生きることができる。その中で、どのように生きるか、生き方を考えなさいと勧めている。

3.試される
「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。(v13)」
私たちの築き上げてきた人生が、本物であったか、薄っぺらであったかは、時が来ると明らかになる。しかし、たとえ建物が壊されたとしても、火の中を通るようにして、助かる。これは土台がイエス・キリストであるから。救いの恵みは約束されている安心はある。

なぜ、パウロはこのことをコリントの教会に伝えたのか?
コリントの教会は、互いを批判し合っていた。しかし、イエス・キリストの信仰の土台の上に建てられた建物は、どんな建物であっても、聖霊が住まれる神の神殿であることを教えるため。
どのような家を建てるかは、人それぞれだが、御霊の住む神の神殿を壊す権利は人にはない。私たちは、キリストにある同労者である。お互いをさばき合うのではなく、お互いのために祈り合い、愛を持って仕え合う関係。それが行われる場所が教会である。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(v16-17)

「御霊に属している者」Ⅰコリント2:9-16

1.神の知恵
世界が違う価値観も違って来る。兎とかめの話の教訓、日本:兎のように怠けてはいけない、他の国:カメのような卑怯者になってはいけない。この世と天においても価値観は全く違う。この世の知恵では、神の知恵は理解できない。神は十字架を通して勝利された。私たちには思いもよらないことであった。

(v5)「それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるため」

2.御霊の役割
私が知ることのできない神の知恵(真理)は、御霊によって知ることができる。真理は神に属することであり、表面を見ているだけでは理解できない。聖霊は真理へと私たちを導く。真理を知ることは、恵みを知ることである。私たちが知る最初の真理は、十字架のキリスト。それで終わりではなく、隠された真理はもっと豊かにある。なぜなら、天にあるすべての霊的祝福をもって、神は私たちを祝福しているからである。この聖霊が私たちに与えられている。

(v12) しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。

3.御霊に属する者
生まれならの人は、御霊のことを理解することができない。ゆえに新しく生まれる必要がある。それは、イエス・キリストを信じることによって。私たちの内には古い性質が残っている。だから、御霊に属する者として歩むために、いつも主の前に古い自分を悔い改め、御霊によって新しくされることが必要である。御霊に属する者はキリストの心を歩むものである。そして、計り知れない主の真理と恵みに出会うのである。

(v16)「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

キリストの心を自分の心として歩んで行きましょう。

「愚かなことばによって」Ⅰコリント1:18-25

1.十字架のことば vs この世の知恵
 福音は現代において、愚かなもの。なぜなら、ありえないことを信じているから。特にイエスの復活。十字架のことばとは、「福音」、すなわち、私たちの罪のために、イエス・キリストが十字架にかけられたこと、それによって私たちは赦されたこと。当時の人々も、十字架のことばは愚かなことばと考えていた。

(v18) 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

2.パウロが行った宣教
 パウロの宣教の特徴は、十字架のことば。十字架は説得力のある知恵のことばではない。しかし、十字架が空しくならないように、パウロは十字架のことばを語ることに徹底した。なぜなら、自分の知恵によっては、人は神を知ることはできない。つまり、どれだけ説明を聞いても理解できないし、知恵によって理解しようとしても理解できないのである。しかし、信じる者には十字架が輝くのである。

(v23) しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、

3.信仰の本質
信仰は、私たちの側にないものであり、主から与えられるものである。コリントの問題は、信仰の原点を忘れてしまったこと。彼らは、愚かだと思える言葉を信じた者たち。それは、主が与える信仰によって。しかし、それを忘れてしまったことである。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8-9)

宣教は私たちの役割です。隣人になること、仕えること、関係を持つこと、大切なことは色々あります。しかし、最も大切なことは、十字架のことばを語ることです。そこに聖霊が働き、人は信じることができます。愚かに見える十字架のことばには神の知恵が満ちています。

「礼拝の中心」Ⅰコリント1:1-9

パウロは、なぜコリントの教会に手紙を書いたのか?それは、成長に伴う問題があったから。コリントへの手紙の中には多くの問題が書かれている。パウロは、コリント教会の具体的な問題に対し、警告し、励ましを与えている。コリント教会の問題は、後の時代の教会の使信となっていく。新しいいのちを生きる者の生き方の中心は、「礼拝」。
礼拝とは何なのか?コリント全体はそのことを私たちに教えている。

パウロは問題のあるコリントの教会の人々をどのように見ていたのだろうか?そのことが最初の挨拶の部分に現れている。

1.キリスト・イエスにあって聖なる者とされた。
 私たちに問題があったとしても、キリスト・イエスにあって聖なる者とされている。つまり、私たちの内側の問題ではなく、イエスの側が問題。イエス・キリストは救いを完全に成し遂げられた。それによって私たちは、自分は何も変わっていないのに、立ち位置が変化した。救いの恵み。

2.聖徒して召された方々へ
 召されるとは、招待された人々。罪ある者、汚れた者が、聖徒して招待された。つまり、問題があるし、失敗も、罪もある、けど、聖徒として生きたらよい。言い換えるならば、罪人だけども聖なる者として生きることが求められている。昔のままではなく、新しい歩み。その歩みの中で変えられていく。

3.キリストを求める人々の集まり
 教会は、どこにあったとしても、誰であったとしても、キリストを呼び求めている人の集まり。コリントの教会は、色んな指導者がいた。パウロ、アポロ、ペテロ・・・誰に教えらえようとも、教会はキリストにあって一つ。

(ⅴ9) 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

礼拝の本質は、人の側にではなく、イエス・キリストとの交わりにあります。