1.間違った自由
クリスチャンの重要な本質は自由にされた者である。イエスが来られた目的は自由を与えるため。与えられた自由をどのように用いるか?コリントの教会の主張は、「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」、体があるから、淫らな行いがあるのだと、自分たちの行いを正当化していた。救われているから、自分の好き勝手に生きて良い。ほんとうに聖書はそのような自由を語っているのだろか?
「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。(v12)
2.何から自由になったのか?
救いは私たちに与えた自由は、罪の奴隷からの自由である。救われる前は、自分のため、自分が正しいと思うことのためにしか生きることができなかった。しかし、クリスチャンは、自分の思いではなく、神のことばを選べるようになった者である。コリントの教会の人々は、何から自由になったのかが分かっていなかった。ここ彼らの問題があった。救われた者の自由は真理である。しかし、聖書が何を私たちに語っているのか?知識においても知ることが大切である。
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ5:13)
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。(Ⅰペテロ2:16)
3.主と一つ
「遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(v16-17)
救いは、私たちとキリストを一つにする。私たちの新しい生き方は、キリストの心を生きることである。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」みことばの大切さはわかるが、実際に問題に直面した時に、当たり前のようにその逆を選ぶ。いろんな言い訳をして、自分の思いを正当化する理由を見つけるのは簡単である。これが私たちの肉である。
遊女(罪)と交わり一つとなる、とは罪を犯し続けることか?そうでなく、罪を容認(言い訳、正当化)し続け、罪を犯し続けることである。一方で、主と交わるとは、自分の罪を認め、悔い改めて歩むこと。これが主と一つになっている証である。これが100%罪びと、100%義人のクリスチャンの生き方である、
聖書の教えることは、自分の正しさのために生きるのではなく、神と人を愛する者として生きることである。ここに私たちの体の目的があり、そのために与えられた自由を用いるのである。
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(v19-20)