1.正しくない人
問題が起きた時に、どこに解決を求めるか?それは、だれが正しく判断できると考えていることに繋がる。コリントの教会は問題の解決を、神を信じていない人たちに委ねた。パウロは彼らを正しくない人としている。なぜなら、彼らは神の視点を基準に判断をしないからである。アダムとエバが、食べた実は、善悪を知る実。それにより罪が入った。罪は神に反するものである。つまり、神に属する教会にとって、この世の判断は正しくはないのである。なぜなら、この世の判断はどちらが正しいかを決めるだけだからである。そして、コリントの教会の人もその判断を求めた。
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そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。(v7)
2.神の国のルール
神の国のルールの一つは、マタイ18:15に表わされる。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」その特徴は、内密に行うことであり、問題が公にすることやどちらが正しいを決めるためではなく、和解が常にその目的の中心にある。しかし、神の国のルールはもっと上がある。それはマタイ5:40である。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」つまり、不正を知った上で、それを受け入れなさい、と語っている。その理由は「天におられるあなたがたの父の子どもになるため」(マタイ5:45)とある。この間抜けに思えるような生き方が、実は神の子どもの生き方なのである。要は、「負けたもん勝ち」。そこに本当の愛があるとマタイは語っている。難しいことであるが、目指すべき歩みである。
(v7)どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
3.義と認められた者
コリントの教会の勘違いは何か?イエスを信じたら、それで終わりと思っていたこと。「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。」(v9) 私たちは二つの矛盾したことがある。一つは、100%この地の住人であり、一方で100%神の国の住人であること。二つ目は100%罪びとであり、一方で100%義なる、聖なる者であること。どちらが本当の自分か?クリスチャンはイエス・キリストの十字架の御業によって、義と認められました。それによって、神の国を相続する神の子とされた者です。この世にあっても、100%神の国の住人であり、100%義なる者です。私たちは、イエスにあって、新しい命を生きる者です。古い自分ではなく、新しくされた者として生きていくことが大切です。特に教会の中にあっては、新しく生まれた、神の子同士としてお互いに接することが大切です。
(v11) あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
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