伝言ゲームの楽しさは、真剣にやっても正しく伝わらないところにある。しかし、真理について間違ったものが伝わったら大変なことになる。幸いにも聖書のことばは、比較的正しく、伝わって来た。しかし、その聖書の解釈、つまり、聖書のことばを聞いた人の生き方はどうだろうか?同じ福音の教えから、色んな生き方が広がるが、すべてが正しいとは限らない。
パウロの愛
コリントの人々はパウロの語る福音を聞き、イエス・キリストを信じた人たち。正しい教えを聞いていたが、間違った生き方になっていた。パウロは彼らに対し、父と子の関係から語っている。パウロはコリントの問題に対し、神の家族として、愛を持って問題に関わることを大切にしている。もし、この愛の関係を忘れるならば、教会は問題や罪に対して裁いて、判決を下す裁判所に過ぎない。これがコリントの教会の問題であった。
罪を裁く神の義は神の性質である。一方で、罪人を赦し受け入れる神の愛も神の性質である。では、義が先立つ教会、愛が先立つ教会、どちらを私たちは目指して行くべきだろうか?
イエス・キリストは私たちを赦すために十字架にかかられました。それは、私たちを正しい道に進ませるためです。この手紙の目的も、正しい道へ導くためである。そこには養育係にいはない、親の子に対する大きな愛がある。
(v14)私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。
受け継ぐもの
本来、この手紙は世に出回るものではなく、コリント教会の中だけで留められるべきものである。恐らく、コリント教会の同意のもとで広がったに違いない。そうでなければ、コリント教会の恥をさらしているだけである。しかし、受け継がれてきたのは、この中には受け継がれるべき大切なことがあるからである。それは、問題に対する聖書的教えだけではなく、問題に対して愛を持って関わることである。ここに新しい命の生き方がある。
(v16)ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。
Ⅰコリント11:1
私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。
パウロの生き方は、イエス・キリストの生き方。しかし、パウロは直接イエスと過ごしてはいない。つまり、イエスの教えと弟子たちの生き方を通して教えられた生き方であり、それはイエスのように愛をもって仕える生き方である。パウロが語り継いだのは、福音だけでなく、この新しいいのちの生き方である。私たちが親や信仰の先輩から受け継いだものは何であろうか?それは、教えだけでなく、その人の新しい命の生き方も含まれていないだろうか。私たちもこのバトンを、次の誰かに受け継ぐことが委ねられている。
(v17)そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。